金子國義








無邪気な少女に潜むもの
text: Kunio Okada
(「The Body」Vol.37掲載)

 「楽しみと日々」とは、マルセル・プルースト(1871〜1922)の処女作のタイトルである。彼が20歳の頃より綴った初々しい散文をまとめて上梓したのは、25歳の頃であった。古代ギリシアの詩人ヘシオドスが大地母神デメテールヘの敬虔な気持ちに託して、日々の生活を律した「仕事と日々」を踏まえて、プルーストは、いかにも誤解されやすい挑発的なタイトルを選んだのだった。一見、貴族たちの優雅で美しい楽しみと日々が綴られた、この書物に潜む毒に気づいた者は、アンドレ・ジッドをはじめとして、誰もいなかった。プルーストの晩年に「失なわれた時を求めて」が刊行され始めて、ようやく人々は、この「楽しみと日々」のなかに新しさと単なるスノビズムではない鋭い批評精神とが洗練されて表現されていることに気がついたのだった。

 生まれながらにして大変高貴で才気にあふれ愛情も豊かなある種の人たち、といってもどんな悪徳を果たすことも可能で、しかもその悪徳を人前では決して行なわず、その一端すらも他人の手に握られることのないある種の人たち──そういう人たちと共にある人生とは、不思議なほど生易しく快いものである。彼らの邪悪な行為は、闇夜に庭園を散歩するのに似て、最も無邪気な事にも棘の鋭さがある。(窪田般彌・訳)

 以上は、「楽しみと日々」からの引用であるけれども、プルーストはそういう人であったし、金子園義もまたそういう人ではないかと、私は思っている。

 35歳からの13年間を、プルーストはオスマン通りの防音のためにコルクを貼りつめた部屋に閉じこもって、「失なわれた時を求めて」の執筆に没頭していた(最晩年に至って引越しせざるを得なかったのは、階下の工事の騒音に耐えかねたからだ)。外出するのは、ほとんど夜だけだった。それもホテル・リッツやレストラン・ラリュでの食事がおもで、あとは観劇や社交界に時おり顔を出すだけであった。かなり遅刻して、人々がもう帰ろうとする頃にようやく。ごく親しい客を迎え入れるのも夜だった。おそらく1910年頃に知り合ってから、プルーストの臨終の時まで親密な交際を続けたジャン・コクトー(1989〜1963)は、現実を遮断したプルーストの部屋を「海底二万海里」のノーチラス号の客室にたとえ、プルーストをネモ船長にたとえている。コクトーは、プルーストと同じく代々の大ブルジョワジーの出身で、10代の頃より社交界に出入りしていたけれども、すでに文壇で名声を博していた。プルーストがコクトーを敬愛したのは、おそらく二人ともソドムとゴモラの世界の探求者であったからだろう。そう、彼らには美しい肉体や美しい容貌を、その属する性の如何を問わず、熱愛する癖があったのだから……。ジャン・コクトーは自らをも海の底の潜水夫にたとえている。現実とはただ一本の空気を送る管でつながっているだけの孤独な潜水夫に。

 金子國義もまた、夜に生きている。36歳の頃より住み続けている蒼古とした洋館は真夜中にこそ明かりが洩れていて、古びた庭園の樹木を照らしている。プルーストがそうであったように、國義もまた、食事、観劇、展覧会以外は、部屋に籠もって作品制作に没頭している。それが彼の「楽しみと日々」であり、彼もまた一人の潜水夫なのかもしれない。すでに金子國義の第一発見者の一人、澁澤龍彦がその慧眼で、プルーストとの精神的類縁を指摘していた。幼年時代の失われた王国の探求者であることを。

 しかし彼にはまた、プルーストとは決定的に違うところがあった。プルーストは社交界での見聞をもとに、それを醸造したり、蒸溜したり、ブレンドしたりして、「失なわれた時を求めて」として再構築したのだけれども、國義には一度として現実をなぞって、作品を描いたことがないということだ。

 もちろん彼だって、外部からの影響がないわけではない。しかしそれは現実ではなく、同じように創造された世界、彼自身が愛着のある作家や作品の名前をあげて、繰り返し語っているように、たとえばリチャード・アベドン、セシル・ビートン卿、ルキノ・ヴィスコンティ、パルテュス、泉鏡花らが創造した洗練された世界である。.

 國義は何よりも一流の目利きで、大好きな作家の大好きな作品に心酔しているけれども、彼らの作品を模倣することはない。國義に選ばれたこれらの作家たちは、プルーストやコクトーと同じく、精神的血縁ということだ。彼らの作品には、國義の作品と共通のスピリット(意気)とエスプリ(粋)がある。

 そう、金子園義のスピリットとは、天国と地獄が直結しているような、垂直に立ち登る精神だ。そこでは、少女アリスと娼婦エドワルダが、同じ一人の女性として一致する。金子園義のワンダーランドに棲む、一見無邪気な女性が、隠された棘を持つ由縁である。