◎このペダルカーは、フェラーリのシャークノーズだ。左奥の木製の三輪車は、スクーターを模している。そして19世紀末のオーディナリー型自転車は、むしろこの小さな子供用の方が大人にも乗りやすい。


◎GO、GO、GO、走れゴーカート! ゴーカートといえば、赤木圭一郎、なんていうのはもう通じませんね。遊園地のゴーカートの遅いのには、子供心にもジレンマを感じました。


◎三輪車やペダルカーは、子供が最初に運転する乗り物だ。3歳のぼくは、舗装したてのコンクリート道路を走りにくいなと思いながら、三輪車で走ってしまった。後で賠償問題になったのだけれども。


◎これもぶつけ合いっこをする電気自動車のおもちゃ。トロリーカーのように、天井から電気をとって、バチバチ電光を散らしながら走っていた。この単純さに何ともいえない魅力を感じてしまう。


◎ブリキのおもちゃの歴史は19世紀に始まる。優秀なドイツと競争しながらフランスでも職人たちが、より魅力的なおもちゃを次々と開発した。1878年のパリ万博では、おもちゃの大会も催された。


◎ケーブルカーは観光地のパノラマ的な乗り物。ちょっと恐くて、それ故に人気があった。その記憶は夏休みと結び付いている。部屋の端から端へ紐を引いて、このおもちゃを走らせたい。


◎19世紀の発明家たちはまた、命懸けの冒険家でもあった。シュール・ヴェルヌの小説にでも登場しそうな、このプロペラおじさんみたいな冒険家も実際にいたに違いない、とぼくは思うのだ。

◎はじめはドキドキ。とても楽しくて終わったあとは、何故は哀しい。子供にとって遊園地の乗り物の最大の欠点は、乗っている夢のような時間があっけなく終わってしまうことだった。


 生物がおもちゃで遊び始めたのは、進化のいつの段階からだろう? 先日、イタリア最大の大理石の産地として有名なカラーラにアトリエを構える彫刻家の杉山イサオ氏が、その庭先で大家さんが飼っている雑種の大型犬トビーとボールの追いかけっこをして遊んでいるのを眺めながら、ぼくはそんなことを考え始めたのだった。人を見かけると飛んできて、じゃれついてくるトビーのことを、躾がなってないと言って杉山さんは、馬鹿トビーと呼んでいるが、トビーには明らかに喜びや悲しみという感情があり、人と共に玩具と戯れることを楽しんでいる。けれど大理石から作られた杉山さんの彫刻を見ても、おそらく何の感想も抱かないことだろう。杉山さんの彫刻は、神殿がモチーフとなった厳かで神秘的な作品で、それらの愛好家の中にはオリベッティの社長がいるなど、上客にも恵まれている。でもぼくは神秘性よりも、彼の作品に彼の人柄にも通じるおおらかなユーモアを感じてしまう。そんなふうに芸術作品を見て、様々な感想を抱いて楽しむことができるのは、生物の中でもおそらく人間だけだろう。

 話は飛ぶけれど、杉山さんの学生時代は学園紛争の真っ最中で、大学もロックアウト状態だった。だからその間杉山さんは、テキヤのアルバイトをして吉祥寺で子供相手にカブト虫を売っていたそうだ。もとよりカブト虫やクワガタ虫は子供たちの愛玩動物、畢童おもちゃである。エドガー・アラン・ポーの小説『黄金虫』で甲虫はシンボリックなオブジェとして印象的な使われ方をしているが、そのポーのフランスにおける紹介者たるシャルル・ボードレールは、『玩具のモラル』というエッセイを書いている。その一節にお金持ちの子供が、おしきせの高価なおもちゃに飽きてしまい、むしろ塀の外の貧しい子供が籠の中に入れている小動物に心を奪われてしまうくだりがある。ボードレールは、子供にとって精密で豪華なおもちゃが常に素晴らしいわけではなく、むしろ単純で安価なものであっても、人間の想像力によって蠱惑的なものになる魔術的瞬間があることを言っているのだろう。そういえば、ぼくも小学生の頃、学校の帰り道に路上で拾ったワイパーの一部を大事にしていた。子供の想像力の世界では、それはSFの中に登場する光線銃のようなもので、駄菓子屋で売っているプラスティック製のコルトより、すばらしいものであったのだ。今でも憶えているのだから、よっぽど気に入っていたのだろうか?

 子供の想像力は、太古の人間のそれと同じく、魔術的なものである。子供にとっては遊園地の遊具だって、別のものに成りかわる。ジャングルジムが秘密基地になり、ジェットコースターに乗る時には、今しも出撃する戦闘機のパイロットになりきっていたりする。けれども大人になるにつれて、そんな想像力は疎外されてしまう。あるモノはあるモノであって、それ以外のモノには見えなくなってしまうからだ。

 今回、お披露目させていただくガラクタたちは、ぼくが大人になってから見つけたモノだ。ぼくは時として、本物のクルマよりも遊園地の遊具や、子供の乗り物や、おもちゃの方により惹かれてしまう。だから、これらのモノたちを見つけた時には、興奮して嬉々として購入したものである。たとえばオーディナリー型自転車の可愛らしい子供用のものを見つけた時には、後先のことを考えずにすぐ買ってしまった。その後の旅行中も、ずっと連れて歩いだけれど、ちっともお荷物に思わずに、いつも幸福な気分でいたものだ。帰りの飛行機の乗務員さんたちも親切で、スチュワーデスさんが機内で預かってくれたっけ。

 また旅の途中で、ルナ・パーク(移動遊園地)を見つけた時も、とても嬉しくなってしまう。以前、イタリアからフランクフルトヘ向かう途中、スイスのローザンヌで一泊した。夕刻、街に散歩に出掛けると湖のほとりにルナ・パークがあった。初夏の暮れなずむ空にルナ・パークの様々な乗り物のイルミネーションがきらめき、その夢幻的な光景にぼくはすっかり魅せられてしまった。

 おそらく玩具とは、その起源からして魔術的なものだろう。ルナ・パークとはよくいったもので、それは真昼の現実原則が支配する労働の世界に対して、夜の快楽原則に属する遊びの領分である。大人になっても、子供のおもちゃに夢中になってしまうひとは、夜になっても家に帰ることを忘れて遊び続ける子供の成れの果てなのだろうか?


◎これは、アメリカやフランスの遊園地によくあった互いにぶつけ合いっこをしながら、走らせるネズミのような電気自動車のおもちゃだ。けっこう大きなモノで30cmほどもある。
AUTO MOBILIA FILE 32(302号掲載)
「月刊CAR MAGAZINE」(ネコ・パブリッシング発行)に好評連載中です。
参考のため許諾転載させていただきました。

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