6-9, May 1999. Italia
interview with Kunio Okada

(date: May 25,1999. photo: Kunio Okada)
 



サンマリノにて


標高2200mのモンテ・テルミニーロ


モンテ・テルミニーロは、夏も雪がたえない


車を止めると、すぐ人が集まってくる

 


ミッレ ミリアというレース。当時は紛れもないレースだったんです。1927年に始まって、1957年の11名ぐらい観客が亡くなったフェラーリの事故で最後になったんですけど、表向きの最後で、イタリア人っていうのは、そういうイヴェントが好きなんで、その後も2、3年はイタリア国内で密かに続けられていたみたいです。その後復活を望む声が強くて、何度もミッレ ミリア復活したんですが、現在のような形になったのは、1977年、82年、84年で、86年からは毎年行われていて、ブレシア自動車クラブの人たちが中心となって運営しています。


当時(1927〜57年)実際にミッレ ミリアに出場した車だけが出場できる。それが最低限のルールになっています。毎年300〜350台くらい疾走するんですけど、エントリーには、その倍くらい来ますので、その中から選考されるわけです。その基準は、当時実際に走った車か、あるいは同じ車が2台あった場合、成績の良かった方、有名なドライバーが乗っていた方を優先するとか、あるいは車自体にどれだけオリジナリティーがあるとかで決められていて、車検は、台数の多い車って言うのは変なんですけど、車によってはかなりきびしいです。ぼくのチシタリアは、ほとんどこの車はいいよって、車検でもフリーパスで通っちゃうんですけど、やはり主催者側からどうしても出て欲しい車と、出してやるよという車があるのかもしれないですね。


ぼくがミッレ ミリアに出るようになったのは、今エントリーしている車を手に入れてからということが強いですね。実際観客として2回観に行ってたんですが、まさか自分がこんなクラシカルなイヴェントで走るなんて思ってなくて、あこがれていたチシタリアの「202クーペ ミッレ ミリア サヴォヌッツィ」をたまたま手に入れたということもありますね。いろんな偶然が一致して手に入れることができ、実際世の中に2台しかない車で、ぼくの車が1号車で、翌年2号車が作られたんです。その2台を並べてみると、すべてディティールが違うし、全体形も大分違うんですよ。木型とかなくて作っていたのかも知れない。2号車の方は、今年は参加しなかったんですけど、その前年まで連続で8、9回出てますね。やはり日本人なんですよ。たまたま日本にそういう車が2台とも来ちゃったんですよ。


そういう車が手に入ったということで、これは出なくちゃいけない。出るのが義務だみたいに出たのが始まりで、1996年からです。94年、95年と見学に行って、1600kmの途中途中で観てました。外から見ている時の方が、すごく大変だなというのがあったんですが、昨年までは、毎年いろんなトラブルがあって、トラブルが起きちゃうと、350台順番に走っていくので、最後の車までいっちゃうと1台で走っていかなくちゃいけない。後を追いかけてゆくというのは大変なんですよ。時間も少なくなって…。速い車だと夜8時くらいまでに2日目の目的地ローマに到着しているんですけど、ぼくたちは12時まわっちゃうとか、そういうことがしばしばあって、けっこう体力的にもタフなレースだなと思ったんです。今年4回目の出場で、初めてほとんどノー・トラブルで走って、あっけなく1600kmが終わっちゃったなという感じでした。車が好調で、それに4回出て道にもかなり慣れてきたということもあって、かなり楽でした。


チシタリアは、そもそもミッレ ミリアのために作られた車で、戦後一番最初の1947年のミッレ ミリアで、メーカー自体がすごく大活躍をしたんです。チシタリアは、戦後最初のイタリアのレーシングカー、スポーツカーだったんです。アルファ・ロメオはまだ戦前の型を改良して出てたし、フェラーリも1947年の時点ではまだ戦闘力がなくて、1946〜47年にかけては、ほとんどチシタリアがイタリアのモータースポーツのなかでは、一番活躍したメーカーかもしれないですね。その後、フェラーリが最初から12気筒の強力なエンジンをもった車で登場してきて…スクーデリア・フェラーリっていうチームを持っていて(それは戦前からアルファのチームとして活躍していたチームだったので)、レースにかけてはフェラーリはすごく力がありましたから、やがてフェラーリの時代になっちゃうんです。チシタリアは、1100ccのエンジンを積んでいたので、そのクラスでは1950年ぐらいまではずっとトップでした。その後はそのクラスもオスカとかエルミーニとかの強力な挑戦者が出てきり、メーカー自体が縮小してしまったので、あまり活躍はしなくなったんです。